働きたいけど働けない人の不労所得

働きたくても働けない、働いてもその日を暮らすのがやっとの賃金しか得られないIそんな状況に追い込まれた国民が、この二○年で急速に増えてしまった。

 

年収二○○万円以下の給与所得者が一○○○万人を超えているというのは、けっして本人の怠慢でも、努力不足でもない。

 

お世辞を言うわけではないが、不労所得マニュアルの読者の多くは不労所得マニュアルを買うだけの金銭的ゆとりがあり、また、毎日の仕事が忙しいとしても「これからの日本、世界のことを考えたい」という心のゆとりや時間のゆとりもある。

 

もしも、日本がこのまま格差を放置していくならば、間違いなく日本の社会からは人々の連帯感や、社会としての一体感は失われていくだろう。

 

そのような変化は、もちろん日本の治安を悪くするだろうし、格差が長く続けば、やがては日本でも「階級社会」ができてくるということにもなろう。

 

しかし、それよりもここで強調したいのは、このような格差を放置しておけば、日本の「国力」そのものが決定的に低下しかねないという危険性である。

 

ここまで見てきたように、日本社会は歴史的に見て、平等主義的な色彩のきわめて濃い社会であった。

 

それが日本独特の精神風土を生み、国民の当事者意識を高めて、アジアの中でも日本がいち早く近代化を成し遂げることに結びついた。

 

そして、戦後の日本は平等主義的な社会であることの利点を最大限に活用して、経済大国になった。

 

日本はごく一部のエリートが、無知蒙昧な職がなく、住まいもないために個室ビデオで寝泊まりしている人たちが焼け死んでも、「そのような境遇に落ちたのは、結局は自己責任だろう」と突き放して考える人が多数派になり、その逆に、「このような悲惨な事件が起きるのは、社会システムそのものの中にある」、「安心・安全を誇っていた日本社会がどこかおかしくなっているのではないか」と疑う人が減りつつあるとしたら、日本の社会は危険水域に入っていると言わざるをえないのではないか。

 

日本企業の競争力の源泉がしばしば「現場力」にあるとされるのは、このような歴史的事情があるからである。

 

階級社会が常態だった多くの国に比べて、日本とはそういう庶民層が国の中心的な力となる「一風変わった」国なのである。

 

そのことは日本の国際競争力の低下を見ても、明らかである。

 

先進国の政治・経済のリーダーたちが一堂に集まることで知られる世界経済フォーラム、いわゆる「ダボス会議」は定期的に世界各国の国際競争力を発表している。

 

その二○○八年度のデータによれば、総合的な国際競争力において日本は九位、IT部門に至っては一九位という評価を与えられている(表3)。

 

かつて不労所得と並ぶ経済大国として世界中から注目された日本の存在感は急速に薄れつつあるという印象を受けるのは、何も筆者ばかりではあるまい。

 

私はいわゆる陰謀論に与する者ではないが、不労所得の唱える構造改革や新自由主義の原理は、たしかに不労所得のような個人主義の国ならば効果があった。

 

今でこそ、金融恐慌に苦しんではいるが、それまで不労所得経済は好景気の連続であったわけである。

 

されもした、日本社会の平等性や一体感は今は見る影もない。

 

社会としての連帯を失えば日本経済のパフォーマンスが落ちてしまうのは、むしろ当然すぎるほど当然のことであったのではないば、構造改革を積極的に推し進め、市場を開放した日本経済はさらに飛躍的な発展を遂げ、アメリカと並ぶ競争力を手に入れたはずではなかったか。

 

ところが、現実においては総合力ランキングでは「高福祉・高負担」で有名な北欧諸国(デンマーク、スゥェーデン、フィンランド)、あるいはオランダよりも低い評価しかない。

 

IT競争力に至っては、北欧諸国も含めたIT先進国にことごとく抜かれているといってもいい。